価値の交換と制度化
現代社会においていかなる価値が重要であるのかとめぐる問題には,Parsons によれば,業績(achievement)と普遍主義(universalism)の価値こそ,最も進んだ価値をなしている.かれが制度化された個人主義(institutionalized individualism)や手段的活動主義(instrumental activism)を重視している.秩序はいかにして可能なりやがの解決をめざして,かれは,社会の価値が行為者のパーソナリティに内面化されると同時に,その行為状況に制度化されることが必要であることを強調した.
行為者は,かれのパーソナリティのなかに内面化された社会的価値にもとづいて欲求充足の仕方を学習する.すなわち,自らの欲求充足につながる目標が何であり,いかなる手段がふさわしいかを教えこまれるのである.そこで,社会の価値を受け入れることによってのいみ,行為主体はその状況に能動的に働きかけることができるのであるが,とするならば,行為者にとって最も能動的な働きかけを可能とする価値は一体何であるのがに関する洞察が必要とされるだろう.
実は,制度化された行為自体が,きわめてダイナミックな過程を伴っている.制度化された行為を行なうことによって,それぞれの行為主体が自らの欲求を完全に充足することは稀有であるばかりか,欲求充足の不平等がつねにみられるからである.にもかかわらず,制度化された価値が依然として通用しているとすれるば,その事態は勢力差あるいは権力関係によって説明されることになろう.かかる価値が強制されればされるほど欲求阻害が潜在的に蓄積され,価値それ自体の革新のためのエネルギーが増大する.ここに価値革新の鍵がひそんでいる.
Parsons以後,このテーマの解決に向けて Luhmann,N.(1984)は,システム自体の然るべき特徴を確認して,それとかかわる環境の差異性を明確化し,自らを同定することを,システムの自己準拠(selbstreferenz)と名づけている.システムはそうした自己準拠の能力によって錯綜した世界から分出しうることになる.
ところでこうしたシステムの自己準拠は,システムによって産出されると同時にシステムを組成している要素それ自体の自己準拠と深くかかわっている.このことがらLuhmann は,80年代になると自己産出(Autopoiesis)的システム理論を提唱している.自己産出的システムは,それ自体を組成している要素を当の要素の自己準拠とのかかわりあいにおいて継続的に再生産しているシステムのことにほかならない.そうしたシステムのありさまはその要素それ自体の意味賦与のあり方と連動している. こうした考え方によれば,個人がどれだけ圧倒的に社会から影響を受けながらも完全に規定されることはありえない.個人にはそうした規定されざる側面が必ず残されているのであり,だからこそ個人の反撃によって個人は社会そのものに衝撃を与えることができ,時には社会変動の推進力たりうる.他方それ自体の情報処理能力ないしは複合性はとうてい個人の比ではなく,社会の複合性を学び取ることによってはじめて個人は自らの限定された情報処理能力を拡充できる.
社会学者は,役割とそれに付随する制裁のような事柄を制度と呼び,役割に同調する行動を制度化された行為と呼ぶから,基本的社会行動は前制度的と呼べるものであろう.(G.C.Homanns,1961.pp2-3)
ここにいう制度とは,「集団や社会の成員が,相互了解を通じて維持している秩序や行動のタイープないしルール」を意味する.
行為者は,かれのパーソナリティのなかに内面化された社会的価値にもとづいて欲求充足の仕方を学習する.すなわち,自らの欲求充足につながる目標が何であり,いかなる手段がふさわしいかを教えこまれるのである.そこで,社会の価値を受け入れることによってのいみ,行為主体はその状況に能動的に働きかけることができるのであるが,とするならば,行為者にとって最も能動的な働きかけを可能とする価値は一体何であるのがに関する洞察が必要とされるだろう.
実は,制度化された行為自体が,きわめてダイナミックな過程を伴っている.制度化された行為を行なうことによって,それぞれの行為主体が自らの欲求を完全に充足することは稀有であるばかりか,欲求充足の不平等がつねにみられるからである.にもかかわらず,制度化された価値が依然として通用しているとすれるば,その事態は勢力差あるいは権力関係によって説明されることになろう.かかる価値が強制されればされるほど欲求阻害が潜在的に蓄積され,価値それ自体の革新のためのエネルギーが増大する.ここに価値革新の鍵がひそんでいる.
Parsons以後,このテーマの解決に向けて Luhmann,N.(1984)は,システム自体の然るべき特徴を確認して,それとかかわる環境の差異性を明確化し,自らを同定することを,システムの自己準拠(selbstreferenz)と名づけている.システムはそうした自己準拠の能力によって錯綜した世界から分出しうることになる.
ところでこうしたシステムの自己準拠は,システムによって産出されると同時にシステムを組成している要素それ自体の自己準拠と深くかかわっている.このことがらLuhmann は,80年代になると自己産出(Autopoiesis)的システム理論を提唱している.自己産出的システムは,それ自体を組成している要素を当の要素の自己準拠とのかかわりあいにおいて継続的に再生産しているシステムのことにほかならない.そうしたシステムのありさまはその要素それ自体の意味賦与のあり方と連動している. こうした考え方によれば,個人がどれだけ圧倒的に社会から影響を受けながらも完全に規定されることはありえない.個人にはそうした規定されざる側面が必ず残されているのであり,だからこそ個人の反撃によって個人は社会そのものに衝撃を与えることができ,時には社会変動の推進力たりうる.他方それ自体の情報処理能力ないしは複合性はとうてい個人の比ではなく,社会の複合性を学び取ることによってはじめて個人は自らの限定された情報処理能力を拡充できる.
社会学者は,役割とそれに付随する制裁のような事柄を制度と呼び,役割に同調する行動を制度化された行為と呼ぶから,基本的社会行動は前制度的と呼べるものであろう.(G.C.Homanns,1961.pp2-3)
ここにいう制度とは,「集団や社会の成員が,相互了解を通じて維持している秩序や行動のタイープないしルール」を意味する.
コメント