戦略の概念の歴史的背景
さて,Chandler(1962) の「経営戦略と組織」により提起された戦略の概念の歴史的背景及びその後の変化を考察することにしよう.
二十世紀の最初の三十年間は,最低販売価格で製品を提供した企業が成功を収めた.大部分の製品はまだ差別化されおらず,単位当り最低の原価で製品を生産する能力こそが,成功への秘訣であった.1930年代の初期には,ゼネラル・モーターズ社は,生産重視思考から市場重視思考へ転換の引き金を引いた.毎年のモデル・チェンジの導入は,標準製品から差別化製品への転換の象徴であった.それ以前の「生産志向」とは対照的に,成功への新しい秘訣は,「マーケティング志向」へ転換し初めたのである.販売促進,広告,販売,消費者に影響を与える方式が,経営の最優先の関心事になった.
マーケティング志向への転換は,社内に焦点を合わせる内向的な見方から,開放的,外向的な見方への転換を意味した.
大量生産時代に静まった企業を変革させる戦略行動むは環境の乱気流を大幅に促進した.こうして,1950年代までの産業発展は,企業家志向の時代,生産志向の時代,マーケティング志向の時代という逐次的な発展を遂げてきたのである.時代のこうした発展に伴い,経営者グループの関心も優先順位も,それに応じてある中心的な課題から他の課題へ転換した.
大量生産時代と大量マーケティング時代の経営者の不断の関心は,「企業の事業」に向けられていた.賃金が適正である限りは,経営者には,喜んで労働を提供する多くの労働者がいたので,感受性の強い消費者の要求を充足した.経営者が関税,国際通貨交換レート,インフレ率の差異,文化の差異,市場間の政治障壁などのような難解な問題に悩まされることはあっても,それはあくまでも二次的な問題に過ぎなかった.研究開発は.生産性の向上と製品改良に対する管理可能な用具だった.社会と政府は,独占化の傾向と競争抑制の共謀に対して,次第に警戒を強め始めたとはいえ,経済進歩の促進に対しては,依然として好意的なパートナーだったのである.
70年代には,企業の国際化,資源の不足,技術革新の加速化として,生産・流通問題は,ますます大規模になり,ますます複雑になっている.多国籍的な拡張,技術の飛躍的な発展と陳腐化,経済構造の変化などに対する企業家的な関心が,中核的な重要問題にたってる.政府と社会に対する企業の関係は,企業存続の重要課題となっている.
当然のことながら経営者は,それまでの経済不況に対処してきたのと同様に,インフレーション,政府による制約の増大,消費者の不満,外国の競合会社の侵略,技術の飛躍的な発展,作業の変化などの兆候に対応したのである.
変化に対する応対は,企業の行動と環境の命令との間のギャップをもたらすことが多い.というのは,その対応は,新しい不確実性を導入し,権力の喪失という脅威を与え,新しい理解と新しい技能を要請するからである.
こんな背景と伴って,経営戦略の科学化が一大潮流となった.「経験曲線」を使ったコスト分析や「プロダクト・ポートフォリオ理論」による多角化経営は,その典型的な例である.しかしこの時期は,ベトナム戦争,日本や新興工業国の台頭,エネルギー危機等,資本主義経済を取り巻く環境が,厳しさを増やしていたことは明らかである.
80年代,アメリカ経済の破綻が明白となるにつれ,日本的経済ブームと並行して,マクロからの提言が試みられた.アメリカから,競争強化のための「国家的戦略」の必要性が熱っぽく説かれた.(Bruce R.Scott & George E.Lodge,ed.,U.S. Competitiveness in the World Economy. CHBS press,1985)
激変する環境の中で競争力をつけようとするアメリカ企業は,「時間を買う」テクニックとしての M&Aに飛びついた.レーガン政権によるデイレギュレーション(規制緩和政策)が,この M&Aブームに拍車をかけるかたちとなった.また,それを支えるものとして,さまざまな資金調達のテクニックが編み出されていった.
この時代のマネーゲムの狂瀾を華麗に演出したのが,投資銀行家たちである.もちろん彼らにとて,「バブル経済」がいつまでも膨らんでいくと信じていなかっただろう.しかし,その破綻がこんなに早く訪れようとは思いもなっかたに違いない.そして 87年10月19日,ニューヨーク株式市場は大暴落を記録する.
MITの「産業生産性委員会」が 1989年にまとめ上げた『Made in America - アメリカ再生のための米日欧産業比較』は,製造業への回帰と決定づけるものとなった.ダイナミックな戦略と人間中心の組織が伴わない限り,M & A そのものは決して成功を約束するものではない,競争力の差は「経営力」の差であり,生産と開発に深く根ざした経営を目指してきた.
過去の成功を導いたことによって,深層のところで長い間当然と思われてきた仮定の中に築きあげられているからである.そのような仮定は,経営者の中で多くの場合意識はされなくても活発に存在し,代りの仮定や戦略は,実質的に議論不可能なのである.ある問題に対する解決策が繰り返し機能すると,それはあたりまえのことと考えられるようになる.単なる予感とか価値によって支持され,仮説だったものが,徐々に一つの現実として取り扱われるようになる.
経営コンサルタントは,しだいにこの種の問題を認識し始めた,「文化は,戦略を制約する」ために,企業は,その文化を分析し,その制約の範囲内で経営(ときには,創造的に運用)し,必要ならば文化自体を変えることを学ばなければならないことに明らかにきづいている.(Beckhard & Harris,1977;Schwartz & Davis,1981;Peters,1980;Allen & Kraft,1982;Peter & Waterman,1982;Stonich,1982)
組織改善に関心をもつ学者,コンサルタント,経営者たちは,次のような議論をよくする.すなわち,環境変化に対する組織が諸状況に適応するメカニズム,すなわち制御過程を中心に組織構造を変えることで十分なのか,それとも,構造と同様に,人々の態度なり認識を変えなくてはならないのか,という議論である.そして,両方を変える必要があれば,どちらを優先すべきか.これらの疑問を文化の視点からみれば,構造も態度も,ある意味で,文化の人工物であると認識するであろう.すなわち,底流にある仮定を検討することなく,人工物を変えようと考えても,的確な変化を起こしえないであろう.組織は単に,もとの影響力に回帰してしまう.あるグループが,文化を創り上げるのに十分な歴史を経るならば,その文化が共有された仮定という意味で組織の環境認識を及ぼす.
経営組織の究極目的は,継続的活動体としての組織の存続と発展に寄与することである.つまり,生命力(活力)の豊かな組織をつくるべくこころみられる継続的な努力にほかならないのである.それではそのような努力はいったいどのようにして具体化されていくのであろうか. われわれは,より大きな主導的文化の中で進化しつつある社会的単位を検討しているのだから,現段階利用可能なセオリーならびに知識のたすけをかりて,組織文化のダイナミックな概念を発展させることができる.したがって文化は,学習され,新しい経験とともに変化し,もしそのダイナミックスの過程を理解するならば,組織文化は効果的かつ健全的な機能を誘導していくことによって,所期の目的を達成できることであろう.
二十世紀の最初の三十年間は,最低販売価格で製品を提供した企業が成功を収めた.大部分の製品はまだ差別化されおらず,単位当り最低の原価で製品を生産する能力こそが,成功への秘訣であった.1930年代の初期には,ゼネラル・モーターズ社は,生産重視思考から市場重視思考へ転換の引き金を引いた.毎年のモデル・チェンジの導入は,標準製品から差別化製品への転換の象徴であった.それ以前の「生産志向」とは対照的に,成功への新しい秘訣は,「マーケティング志向」へ転換し初めたのである.販売促進,広告,販売,消費者に影響を与える方式が,経営の最優先の関心事になった.
マーケティング志向への転換は,社内に焦点を合わせる内向的な見方から,開放的,外向的な見方への転換を意味した.
大量生産時代に静まった企業を変革させる戦略行動むは環境の乱気流を大幅に促進した.こうして,1950年代までの産業発展は,企業家志向の時代,生産志向の時代,マーケティング志向の時代という逐次的な発展を遂げてきたのである.時代のこうした発展に伴い,経営者グループの関心も優先順位も,それに応じてある中心的な課題から他の課題へ転換した.
大量生産時代と大量マーケティング時代の経営者の不断の関心は,「企業の事業」に向けられていた.賃金が適正である限りは,経営者には,喜んで労働を提供する多くの労働者がいたので,感受性の強い消費者の要求を充足した.経営者が関税,国際通貨交換レート,インフレ率の差異,文化の差異,市場間の政治障壁などのような難解な問題に悩まされることはあっても,それはあくまでも二次的な問題に過ぎなかった.研究開発は.生産性の向上と製品改良に対する管理可能な用具だった.社会と政府は,独占化の傾向と競争抑制の共謀に対して,次第に警戒を強め始めたとはいえ,経済進歩の促進に対しては,依然として好意的なパートナーだったのである.
70年代には,企業の国際化,資源の不足,技術革新の加速化として,生産・流通問題は,ますます大規模になり,ますます複雑になっている.多国籍的な拡張,技術の飛躍的な発展と陳腐化,経済構造の変化などに対する企業家的な関心が,中核的な重要問題にたってる.政府と社会に対する企業の関係は,企業存続の重要課題となっている.
当然のことながら経営者は,それまでの経済不況に対処してきたのと同様に,インフレーション,政府による制約の増大,消費者の不満,外国の競合会社の侵略,技術の飛躍的な発展,作業の変化などの兆候に対応したのである.
変化に対する応対は,企業の行動と環境の命令との間のギャップをもたらすことが多い.というのは,その対応は,新しい不確実性を導入し,権力の喪失という脅威を与え,新しい理解と新しい技能を要請するからである.
こんな背景と伴って,経営戦略の科学化が一大潮流となった.「経験曲線」を使ったコスト分析や「プロダクト・ポートフォリオ理論」による多角化経営は,その典型的な例である.しかしこの時期は,ベトナム戦争,日本や新興工業国の台頭,エネルギー危機等,資本主義経済を取り巻く環境が,厳しさを増やしていたことは明らかである.
80年代,アメリカ経済の破綻が明白となるにつれ,日本的経済ブームと並行して,マクロからの提言が試みられた.アメリカから,競争強化のための「国家的戦略」の必要性が熱っぽく説かれた.(Bruce R.Scott & George E.Lodge,ed.,U.S. Competitiveness in the World Economy. CHBS press,1985)
激変する環境の中で競争力をつけようとするアメリカ企業は,「時間を買う」テクニックとしての M&Aに飛びついた.レーガン政権によるデイレギュレーション(規制緩和政策)が,この M&Aブームに拍車をかけるかたちとなった.また,それを支えるものとして,さまざまな資金調達のテクニックが編み出されていった.
この時代のマネーゲムの狂瀾を華麗に演出したのが,投資銀行家たちである.もちろん彼らにとて,「バブル経済」がいつまでも膨らんでいくと信じていなかっただろう.しかし,その破綻がこんなに早く訪れようとは思いもなっかたに違いない.そして 87年10月19日,ニューヨーク株式市場は大暴落を記録する.
MITの「産業生産性委員会」が 1989年にまとめ上げた『Made in America - アメリカ再生のための米日欧産業比較』は,製造業への回帰と決定づけるものとなった.ダイナミックな戦略と人間中心の組織が伴わない限り,M & A そのものは決して成功を約束するものではない,競争力の差は「経営力」の差であり,生産と開発に深く根ざした経営を目指してきた.
過去の成功を導いたことによって,深層のところで長い間当然と思われてきた仮定の中に築きあげられているからである.そのような仮定は,経営者の中で多くの場合意識はされなくても活発に存在し,代りの仮定や戦略は,実質的に議論不可能なのである.ある問題に対する解決策が繰り返し機能すると,それはあたりまえのことと考えられるようになる.単なる予感とか価値によって支持され,仮説だったものが,徐々に一つの現実として取り扱われるようになる.
経営コンサルタントは,しだいにこの種の問題を認識し始めた,「文化は,戦略を制約する」ために,企業は,その文化を分析し,その制約の範囲内で経営(ときには,創造的に運用)し,必要ならば文化自体を変えることを学ばなければならないことに明らかにきづいている.(Beckhard & Harris,1977;Schwartz & Davis,1981;Peters,1980;Allen & Kraft,1982;Peter & Waterman,1982;Stonich,1982)
組織改善に関心をもつ学者,コンサルタント,経営者たちは,次のような議論をよくする.すなわち,環境変化に対する組織が諸状況に適応するメカニズム,すなわち制御過程を中心に組織構造を変えることで十分なのか,それとも,構造と同様に,人々の態度なり認識を変えなくてはならないのか,という議論である.そして,両方を変える必要があれば,どちらを優先すべきか.これらの疑問を文化の視点からみれば,構造も態度も,ある意味で,文化の人工物であると認識するであろう.すなわち,底流にある仮定を検討することなく,人工物を変えようと考えても,的確な変化を起こしえないであろう.組織は単に,もとの影響力に回帰してしまう.あるグループが,文化を創り上げるのに十分な歴史を経るならば,その文化が共有された仮定という意味で組織の環境認識を及ぼす.
経営組織の究極目的は,継続的活動体としての組織の存続と発展に寄与することである.つまり,生命力(活力)の豊かな組織をつくるべくこころみられる継続的な努力にほかならないのである.それではそのような努力はいったいどのようにして具体化されていくのであろうか. われわれは,より大きな主導的文化の中で進化しつつある社会的単位を検討しているのだから,現段階利用可能なセオリーならびに知識のたすけをかりて,組織文化のダイナミックな概念を発展させることができる.したがって文化は,学習され,新しい経験とともに変化し,もしそのダイナミックスの過程を理解するならば,組織文化は効果的かつ健全的な機能を誘導していくことによって,所期の目的を達成できることであろう.
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